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東京地方裁判所 昭和28年(ワ)9657号 判決 1955年6月14日

原告 小池安太郎

被告 生盛株式会社

主文

本件訴を却下する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、「被告は原告に対し金百九十一万円及びこれに対する昭和二十八年十一月二十一日から支払済にいたるまで年五分の割合による金員の支払をせよ。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並に仮執行の宣言を求め、その請求の原因、並に被告の抗弁に対する答弁として、次のとおり述べた。

原告は、訴外阿部利一等と共同してアセチレンの酸化による蓚酸製造法を発明し、右製法につき特許を出願していたが、昭和二十五年八月頃、被告は原告に対し右製法を利用させてもらいたいと懇請して来た。そこで折衝の結果、原告は右の製法と技術を、被告は工場設備等の資本を、それぞれ提供して原被告共同でこの製法の企業化をはかることとし、相互に利益配分の割合を定めた上、被告を前記特許権の共同出願人に加えてその登録を得た。

そして、昭和二十六年三月三十一日、原告は被告との間に左記(一)(二)の内容の契約を締結した。

(一)  原告は被告に対し、前記の蓚酸製造法につき、被告の提供する実験設備を使用して「テストプラント」の実験を行い、この製造法が企業的価値を有することを証明することを約する。

(二)  原告が右の事実を証明したときは、被告は直に新会社を設立して右蓚酸製造法の企業化に著手し、原告に対し報酬として金五十万円及び右新会社の株式額面百万円を贈与し、且つ原告が右会社に勤務するにいたるまで毎月金三万円の報酬を支払う。

そこで、原告は、右の契約にしたがつて被告の提供する設備を使用し、被告の従業員立会の下に数回にわたつて実験を行つたところ、いずれも一定のカーバイトに対して製造される蓚酸の割合が百分の六十二乃至百三十という好成績をおさめ、この製造法が企業的価値を有することを証明した。しかるに、被告は、前記の契約に違反して、新会社を設立しようとせず、約旨による株式を贈与することもなく、五十万円の報酬も内金二十五万円を支払つただけで残額を支払わず、且つ昭和二十七年一月以降は約旨による月額三万円の報酬をも支払わない。

よつて、原告は被告に対し、前記の契約による報酬金残金二十五万円、昭和二十七年一月から昭和二十八年十月までの月額三万円宛の報酬金六十六万円、及び被告が約旨どおり株式を贈与しないことによつて蒙つた損害金百万円、合計金百九十一万円と、この金員に対する本件訴状送達の翌日である昭和二十八年十一月二十一日から支払済にいたるまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるものである。

なお、本件に関し被告の主張するような不起訴の合意が成立した事実はこれを争う。

以上のとおり述べた。<立証省略>

被告訴訟代理人は、本案前の申立てとして主文第一項と同旨の判決を求め、本案の申立てとして「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」旨の判決を求め、本案前の抗弁並に本案の答弁として次のとおり述べた。

原告は先に昭和二十七年秋頃、本訴請求原因と同一の事実関係に基き被告代表者等に詐欺の被疑事実ありと主張して、東京地方検察庁に告訴を提起したが、同年十二月頃にいたりこれを取下げた。その際原告は、被告から金三万円を受領するとともに、以後被告に対し本件に関し民事上刑事上一切の請求をしないことを約した。即ち、これによつて原告は、本件契約から生ずる一切の権利関係につき、被告に対し民事訴訟を提起しないことを約したものである。したがつて、それにもかかわらず提起された原告の本訴は不適法であるから、これを却下する旨の判決を求める。

そればかりでなく、被告には、原告の主張するような債務不履行の事実は全くない。即ち、本件蓚酸製造法につき、原告主張のような経緯で原告主張のような特許権が登録されたこと、この特許権の企業化に関し昭和二十六年三月三十一日原被告間に原告主張のような契約が成立したこと、原告が被告の設備を使用して実験を行つたこと、被告が原告主張の新会社を設立せず、原告に対し原告主張の株式を贈与せず、原告主張の金員を報酬として支払つていないことは、いずれもこれを認めるが、原告主張のその余の事実は否認する。

原告は昭和二十五年八月頃、被告に対し、本件特許権を企業化するための費用等を支出してもらいたいと懇請して来たので、被告はその話を信用して折衝の結果、昭和二十六年三月三十一日に原告主張の契約を締結し、設備と費用を提供して原告に実験を行わせた。ところが、実験に要した費用は原告の当初申出の額の十数倍の額にのぼつた。且つまた原告は、企業化が成功した際に与える約旨の報酬五十万円の内二十五万円の前払を要求した。原告は已むなくこれらの金員を原告に支払つた。しかも約旨の二箇月の期間を著しく遅延して昭和二十六年十月頃終了した実験の結果によると、使用カーバイトに対する蓚酸の収量の比率が明確でなく、且つ作業中爆発の危険を除去する成算がない等、この蓚酸製造法が到底企業化に堪えるものではないことが判明した。結局、原告は約旨に反して、右製造法が企業的価値のあることを証明することができなかつたわけであるから、被告は原告に対し本件契約に基く報酬支払等の義務を負わない。

以上のとおり述べた。<立証省略>

理由

先づ被告の本案前の抗弁について判断する。証人伊藤清の証言によつて真正にできたものと認め得る乙第一号証、真正にできたことに争いのない乙第五号証、第七乃至第九号証、第十号証の一、二に前記伊藤証人の証言並に原告本人尋問の結果を併せ考えると、次の事実を認めることができる。

原告は、昭和二十七年秋頃、東京地方検察庁に告訴を提起した。その要旨は、「昭和二十六年三月三十一日、原被告間に原告の発明に係り被告がその共同権利者となつていた蓚酸製造法に関する特許権につき、原告は被告の提供する設備を使用して実験を行い右製法が企業的価値のあることを証明することを約し、その証明ができたときは被告はこれを企業化して原告に報酬を与えることを約する、という内容の契約が成立した。そして原告は右の約旨にしたがつて実験を行い右の事実を証明したが、被告は約旨どおりの企業化をなさず、原告への報酬も支払わず、而もこの企業化に必要なりとして政府から低廉な価格で旧海軍火薬廠の施設の払下げを受け、右特許権から生ずる利益を独占している。これは、被告の代表者塚越保等が被告をして不法に右の利益を得させる目的を以て原告を欺罔したことによるものである。よつて右塚越等に詐欺の被疑事実があるとして告訴を提起する。」というのであつた。

原告は、その後、右告訴事件担当の検察事務官からの勧告にしたがつて同年十二月頃この告訴を取下げたが、一方被告も原告との紛争一切をこの際終局的に解決することを意図し、同月二十二、三日頃、代理人伊藤清弁護士をして原告と折衝させた。原告としては、もともと被告が百五十万円ほどの金員を支払つてくれなければ自己の蒙つた損害は償われないと考えていたが、本件特許権の名義を原告に書換える旨の被告の申出があつたので、これによつて従来の紛争一切を解決することを了承した。その結果、同日、原告と右被告代理人との間に、被告は原告に対し金三万円を支払うとともに、本件特許権の名義を原告に書換えることを約し、原告は前記告訴を取下げるとともに、以後被告に対し前記昭和二十六年三月三十一日の契約から生ずる権利関係につき民事上刑事上一切の請求をしないことを約する、という合意が成立し、原告は右三万円を受領した。

右の事実が認められる。そして以上の事実から考えれば、原告が被告に対し昭和二十六年三月三十一日の契約上の債務の履行を求め且つその不履行による損害賠償を求めて本訴を提起したことは、前記昭和二十七年十二月二十二、三日頃、原被告間に成立した不起訴の約定に違反するものと認めざるを得ない。

右の約定は、原告が被告に対し前示の契約から生ずる権利関係につき訴訟を提起しないという私法上の債務を負担したことを意味するにとどまり、原告がその国家に対する権利である訴権を放棄したものと解すべきではない。しかしそれにしても、この権利関係は本来両当事者の任意の解決に委ねられる性質のものであつて、しかも前示の如く昭和二十七年十二月二十二、三日頃に両当事者はこの権利関係を合意によつて解決したものである。そうであるとすれば、原告が被告に対し、その際なされたあらたな合意に基いて本件特許権の名義書換義務の履行等を求めることは格別であるとしても、前記不起訴の約定に反して本訴を提起することは、既に解決を見た元来の権利関係についての争を再び繰返すことを意味する。このような訴訟は、裁判所の判断を求めるに足りる権利保護の利益を欠くものとして不適法であると認めなければならない。

よつて、被告の抗弁は理由があるから、本案についての判断をするまでもなく、原告の本訴を不適法として却下することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九十五条本文、第八十九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 新村義広 山本実一 秦不二雄)

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